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「ブラガ史上最高監督」アベル・フェレイラ流、中小クラブを率いるサッカー哲学

『The Coaches’ Voice』

世界各国の監督を取り上げるメディア『The Coaches’ Voice』 が、2017-18シーズンにSCブラガの監督としてクラブレコードとなる勝ち点75を積み上げた若き名将アベル・フェレイラを特集。現在はギリシャのPAOKで初の海外挑戦に挑む41歳のポルトガル人監督のサッカー哲学に迫った。

(以下、同メディアが掲載したアベル・フェレイラ監督の言葉を意訳)

「Football Manager」というゲームを覚えていますか?

私の友達はバルセロナやレアル・マドリードといったチームを選んでいたものです。当然のように勝つことができて、何でも買えるようなチームです。

私は、その光景をどのように見ていたのかと言うと、「大きな挑戦というものは、それらのビッグチームにいる時ではなく、より少ないリソースでそれらのチームと競い合っている時のことを言うのだ」というものでした。

だから私は、いつもスモールチームを率いていました。私が実際に選手としてのキャリアをスタートさせたポルトガルのペナフィエルやブラガといった2部のチーム、または、トッテナムのようにタイトルを獲得したことがないチームです。

それでも、常に勝てると信じていました。

どのようにでしょうか?
同じことをやって?同じように攻撃をして?

いいえ、違います。

ナポレオンのような小さな男が、どうやってたくさんの敵を打ち負かしたのでしょうか?それは戦略です。策略なのです。

コーチとして「どのように?」「なぜ?」と問うことは重要なことです。私はここブラガでまず最初にそのことを学びました。ジェズアウド・フェレイラという監督からです。

(※ジェズアウド・フェレイラ:ポルト 、ベンフィカ、スポルティングの「3強」を率いた経歴を持つポルトガル屈指の名将。2006-09シーズンには、ポルトでリーグ3連覇を達成し、一時代を築いた)

彼は先生でした。

(ジェズアウドではない)他の人から教わったコーチが数名いましたが、彼らはこう叫ぶのです。「プレッシャーをかけろ!」と。でも、それはいつ、どのように、誰に、どこでかければいいのでしょうか?

ジェズアウドはいつも質問を投げかけていました。「どこに行こうとしているのだ?それはなぜだ?仮にここに他のアタッカーがいたとすると、君はどちらをマークする?それはなぜだ?」と。

このような会話をすることで、選手たちは初めて自分たちのタスクを知ることができるのです。

このアプローチは、本当に私のためになってくれました。今では、選手たちに教え・質問することが好きなコーチであると自分自身で思っています。ジェズアウドが私に教えてくれた「どのように?」「なぜ?」と問うことです。

彼と一緒に働いていた当時、私は24歳でした。その時すでに将来はコーチになりたいと考えていました。そして、その瞬間からスタートさせることがコーチになる方法であるとも分かっていました。コーチングについて理解を深めることで、自分自身もより良い選手になれるからです。

私は日記をつけていました。毎日トレーニングの後、家に帰ったらその日見たものを書き留めるのです。リーダーシップについて、戦略について、ミーティングについて、私自身が気に入ったことについて… 今でもそのノートを持っています。

31歳のときにスポルティングでプレーしていましたが、その当時も依然として勉強を続けていました。アカデミーダイレクターが私に尋ねてくれたことを覚えています。「今すぐにコーチとしてのキャリアを始めたくないか?」と。

私は答えました。「今ではありません。40歳までプレーしていたいです」

その1ヶ月後、膝に大怪我を負いました。

「運命」というものを信じる人もいれば、信じない人もいます。

その怪我は、スポルティングとの契約が終わりに近づいている時に起きたのです。スポルティングは、クラブで怪我の回復をし、また新たなチャンスを得られるような機会を提供してくれました。しかし、怪我は良くなりませんでした。

走るたびに膝が痛むのです。痛みは積み重なり、消えることはありません。

私は3度ドクターに相談しました。そして彼らは毎回、引退した方が良いと言うのです。もうプレーは続けられないことを受け入れたときは何日も泣きました。悲しみに暮れていました。怒りが湧き上がり、不公平とも感じました。

どうしてこんなことが起きようか?この年までただひとつの大怪我もなくやって来られたのに。それが今になってこんなことに…?

でも時に、扉が閉じても窓は開くことがあります。

私はスポルティングのジュニアチーム監督の手伝いを始めました。そして、彼がシニアチームへステップアップした際に、ポストに空きが出ました。クラブは、私がそのポジションを務め、コーチングコースを修了させることもできると言ってくれたのです。

これが私のストーリーの始まりです。ひどいアクシデントから始まったのです。

初年度、我々はジュニアリーグを制しました。さらに、UEFAユースリーグでは、リバプール・サウサンプトン・チェルシーと並び、ベスト4まで勝ち進みました。翌年、私はスポルティングBチームの監督に昇格し、リーグ6位まで導きました。

その年でした。ブルーノ・デ・カルバーリョがクラブの会長に就任したのは。誰だか分かりますね。

(※ブルーノ・デ・カルバーリョ:半独裁的な豪腕で知られた元スポルティング会長。2019年にスポルティングのソシオから除名され、会長職を解かれた)

シーズンが始まって1週間、彼は私をクビにしました。

Bチームに望むものって何でしょうか?普通の考え方では、選手をAチームでプレーできる状態にすることです。前シーズンを6位で終えることができただけでなく、カルロス・マネー、ジョアン・マリオ、エリック・ダイアーらをAチームに昇格させたのにです。

とにかく、(スポルティングでの経験は)これで終わりでした。また扉が閉まったのです。

その時は、すぐに別の窓が開き、ブラガに戻ることができました。ファーストチームを率いる前に、Bチームで3シーズンを過ごしました。

私の方法論は、古き良きスポルティングのスクールのそれに基づいています。なぜなら、私がコーチとして最初の一歩を踏み出したのがそこだからです。

しかし同時に、私はフットボールの未来も見ています。ペップ・グアルディオラやマウリシオ・ポチェッティーノなどの監督がどのように仕事をしているのかということです。

私にとって、フットボールの未来は「猫とネズミの追いかけっこ」です。すなわち、対戦相手のリアクションに応じて戦術的な変化を適用することです。

ヨーロッパリーグで、ホッフェンハイムとのアウェイゲームに臨みました。彼らは最初3-5-2のフォーメーションでしたが、途中で4-3-3、すなわち、3人のストライカーとセンターバックが前進した形に変化しました。そこで、我々は4-4-2でスタートしたフォーメーションを、彼らの変化に合わせて5-4-1に変えたのです。

我々は2-1の勝利を収めました。コーチとして、最も誇りに感じている試合です。

もし対戦相手が同じレベルであれば問題はありません。攻撃することは可能です。しかし、もし山のように巨大な相手を攻撃するのであれば、違った方法を取る必要があります。

ある試合では、ボールを支配してゲームの主導権を握りたいと考えても、時に対戦相手が自分より強いことを受け入れなければならないことがあります。その場合はバランスを取る必要があるのです。

マンチェスター・シティになりたくても、グアルディオラやベルナルド・シウバはいません。したがって、すべての試合において異なるアプローチが必要であることを理解できるほどに、謙虚でいなければなりません。私の考えでは、それが我々のチーム(ブラガ)の最大の秘訣です。

試合前、私は選手たちに3つの重要な考え方を与えます。それがすべてです。

それは、映画を見た後に誰かが「どのシーンが記憶に残っている?」と聞いてくるようなものです。

キスシーンかもしれないし、カップルが結婚したシーンかもしれない。でも出てくる答えは、せいぜい3つか4つでしょう。選手にとっても同じことが言えるのです。

ここで言えることは、「完ぺきな公式など存在しない。また完ぺきなゲームプランなど存在しない。ただ、あなたが信ずるもののみが存在する」ということです。

ある人は私の信じるものを好むかもしれません。しかし、ある人はグアルディオラのものかもしれないし、ディエゴ・シメオネのものかもしれない。重要なのは、選手に対して望んでいることを説明できること。それが優秀なコーチになるために必要なことです。

勝てる監督だけが優秀な監督であるという恥ずかしい考え方があります。勝てば良い監督、負ければ弱い監督、と。

私にとっては、それは嘘です。

試合のある週末は、その週にしてきたことがジャッジされる場です。その瞬間だけ、周りの人たちはチームがオーガナイズされているかどうか、ボールを上手く動かせているかどうかを判断できます。日曜日は、いわばテストのようなものです。

しかし、私が常々選手に伝えているのは、「自分たちの仕事に集中しよう」ということ。結果にばかり拘泥すればするほど不安になるものです。

テストに合格することばかりに気を取られる必要はありません。テストのために勉強することが必要なのです。きちんと勉強をすれば、心配することは何もないのです。

プロセスに気を配ること。そうすれば結果は付いてきます。

チームとしての野心についても同じです。自分たちがタイトル候補だと宣言して、自分自身や選手にプレッシャーをかけることは正しい行いではありません。

我々は対戦相手とは全く異なる武器を持っているのです。

自分たちの売上高が2000万ユーロで、ベンフィカが1億2000万ユーロのとき、(タイトルへの)期待感を生み出すことはできないのです。リソースが合っていません。

ベンフィカ、スポルティング、ポルトはクラブの歴史に対して義務があります。我々(ブラガ)はアウトサイダーです。

「私は世界で誰にも知られていないアベルです。私はタイトル候補です」そのようなことはブラガでは言えません。そんなことを言えば、人々は私をプレイボーイだと思うでしょう。謙虚さを示さなくてはなりませんし、それこそが、私が選手に伝えていることです。我々の唯一の義務は、毎日ベストを尽くすこと。結果についてさえも考えないこと。

「Football Manager」における私のチームのように、ここでタイトルを獲得するのは難しいでしょう。それでも、私は決して諦めませんでした。

そして今、我々の野心と夢はそこにあります。我々はその後を追います。

種が植えられました。それが実を成すかどうか、私にはまだ分かりません。

アベル・フェレイラ監督が語ったように、ブラガはポルトガルの3強の影に隠れた、いわばダークホース。それでも、同監督はクラブレコードの勝ち点を記録したこの年、ポルトガルリーグでは、3位スポルティングに勝ち点2差まで肉薄する好成績を残した。

「選手に自分の考えを端的に説明する、そのために選手に日々問いかけ、考えさせる」

「試合ごと、そしてその試合での対戦相手の状況ごとに、自らのチームが取るべき戦略を変化させる」

「チームの現実を謙虚に受け止めて、地に足をつけて日々地道にベストを尽くす」

「結果を見ずに過程を重視する」

「それでも、タイトルは諦めない」

タイトル候補ではないチームを率いながらポルトガル国内屈指の若手注目株となったアベル・フェレイラのフットボール哲学には、弱小チームにとってのヒントが散りばめられていた。

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世界王者リバプール「今季最高の補強」。ベールに包まれたポルトガル人コーチに迫る

『maisfutebol』

リパプール監督ユルゲン・クロップの右腕ペパイン・ラインダースに誘われ、欧州王者の「elite player development」責任者に就任したビトール・マトス氏が、ポルトガルメディア『maisfutebol』のロングインタビューに応答。CL制覇に続き、2019-20シーズンのプレミアリーグも圧倒的な強さで蹂躙する最強チームにおいて、成功の鍵を握りながらも詳細な素性が明かされてこなかったブレインの人生に迫った。

-監督としてのキャリアについて話をする前に、あなたの幼少期について振り返らせてください。サッカーは何歳のときに始めたのですか?

24時間ずっとサッカーができるならそうしているような子どもでした。道端でも学校でも家でも、サッカーをどのような形であってもできる方法をいつも探していました。オフィシャルな形でサッカーを始めたのは13歳のとき。地元の「SCコインブロインス」でプレーし始めました。その日から一度たりともサッカーから離れたことはありません。

-何年間プレーしたのですか?

サッカーの育成年代は全て経験して、シニアの年代になったときに、監督をする機会が訪れました。面白いことに、多くのチームメイトを自分が指導したのです。

-いつ監督としてのキャリアを送りたいと思い始めたのですか?

私は常にサッカーに対して大きな情熱を注いできました。SCコインブロインスやCFバラダーレスといったチームでプレーヤーとしてサッカーと繋がっていたし、その少し後には、FCポルトの偉大なる瞬間に立ち会える幸運にも恵まれました。2002-03と2003-04のジョゼ・モウリーニョ監督期のFCポルトです。この2年間は、チームがどのようにプレーし、どのように構築されるのかという観点から、私の中で記憶に残っています。おそらくCLの前日と翌日の新聞をまだ持っていると思います。あれが私の好奇心を大いに刺激しました。ジョゼ・モウリーニョの足跡を追うだけでなく、その成功の背景を知りたいと思い、監督になりたいと考えるようになりました。だから、15歳のときにはもう自分の頭の中は決まっていたのです。シニア年代の初年度までプレーは続け、(ポルト大学の)スポーツ学部で学びました。その後、オランダに留学し、そして監督になる誘いを受けました。

-オランダに留学したのですね。

オランダには「エラスムス」の留学プログラムで行きました。当時は、アヤックスとその育成プロジェクト、そしてオランダのサッカーやトレーニングの文化について興味がありました。

-監督になる機会はどのようにして訪れたのですか?

FCバラダーレスで監督としてのキャリアをスタートさせました。おかしな話ですが、オランダに留学していたのに、もうクラブのプレシーズンが始まっていたのです。私が戻ってきたとき、監督が「選手の代わりにアシスタントコーチになりたいか」と尋ねてきました。私は、選手よりもアシスタントコーチとしての方が価値を出せると考えたので、疑いようなく正しい決断でした。翌年、クラブの会長がU-19チームの監督を務めるチャンスをくれました。21歳の私にとっては素晴らしい経験です。その年の終盤に、育成プロジェクトのためトロフェンセ(ポルトガル)に行く招待を受け、2年間をそこで過ごしました。

-その後に、FCポルトの名前が浮上します。どのように招待を受けたのですか?

私がFCポルトに入団したとき、育成プロジェクトの責任者はルイス・カストロ(現シャフタール監督)とビトール・フラーデ教授でした。教授が私に、ルイス・カストロとの面接の機会をくれたのです。なんともない普通の面接プロセスを経て、最終的な決定を待っていました。合格の知らせを受け取った日のことを、まるで今日のように覚えています。すごく意味深いものでした。

-FCポルトでは5シーズンを過ごされました。クラブ内ではどのような役割を果たしていたのですか?

私は、我々の経験や将来に向けた準備の仕方を信じています。その意味で、幸運にも、試合やトレーニングへの知識が豊富で、クラブの文化を重視していた監督たちとともに育成プロジェクトに参画できました。私のFCポルトでの最初の役割は、U-9チーム監督とU-13アシスタントコーチでした。私が初めて全国レベルの大会でアシスタントコーチを務めた監督が、アントニオ・フォーリャ(前SCポルティモネンセ監督)でした。その後、クラブ内で新たに作られた機能や、もっと貢献できる機能について構造的な革新があり、私は監督やアシスタントコーチ、オブザーバーなどを務めました。その経験のおかげで、育成プロセスの全課程や全部門、共通の目的に沿って各部門を関連づけるようなマクロな視点を持つことができたのです。

-その後、FCポルトを退団して、中国の山東魯能に行きましたね。なぜでしょうか?

中国行きの決断には2つの要因がありました。1つ目の要因として、中国ではより経済的に自立でき、より快適に家族との生活や計画を進めることができる状況だったこと。2つ目の要因としては、異なる文化への挑戦、そしてプロジェクトを共に進めたグループによる挑戦でした。

-中国ではどのような役割を果たしましたか?

U-9からU-13までのサイクルにおけるコーディネーターと、同時に、U-15およびU-16チームの監督を務めました。

-その経験をどのように評価しますか?

人間的な観点、また、専門的な観点からも、非常に豊かな経験でした。人間的な視点というのは、異なる文化を持つ人々への理解、我々にとっては重要なことでも彼らにとっては重要ではないことがあるということ。専門的な視点というのは、相対化すること、そして優先事項と付属事項を区別すること。小さな変化が、大きなインパクトを創造できることに気づかされました。

-なぜFCポルトに戻ったのですか?

FCポルトへの復帰は、自然な形で起こりました。私がクラブや組織全体と良い関係を築いていたためです。家に帰るようなものでした。中国では契約の最終年であり、更新しないことは決めていました。ルイ・バロス(現ポルトB監督)とクラブ組織からの招待を受け、彼のテクニカルチームに加わりました。

-FCポルトの育成組織で出会った最高のタレントは誰でしたか?

移籍シーズンが近づいていますので、他クラブについての質問には答えたくありません。誤解を招きたくないので。

-FCポルトに戻ってたった1年で、リパプールの名前が浮上します。それはどのように起こったのですか?

ユルゲン(クロップ)とペパイン(ラインダース)、そしてクラブは、テクニカルチームにおいて、アシスタントコーチとしての役割に加えて、アカデミーとトップチームを強く結び付けられる役割の必要性を感じていました。

-ペパイン・ラインダース氏が監督・コーチとしてあなたに与えた影響はどのようなものですか?

ある人に影響を与える最良の方法は、その人の心に触れることだと信じています。ペパインにはその才があります。彼は試合、トレーニング、そして我々一人ひとりに届く方法について、エネルギーと情熱を持っています。発生している問題について解決策を探すことに秀でており、ときに問題を予期することもあります。彼とまた仕事ができていることは、私にとっては誇りであり大きな喜びです。

-リパプールではどのような役割を果たしていますか?ユルゲン・クロップのアシスタントコーチを務めながら、U-23チームとジュニアチームの選手たちとも仕事をしていますね?

トップチームのアシスタントであることに加え、私の主な目的は、才能豊かな選手、つまり、エリート選手の育成を最大限に促すことです。選手の育成は様々な方法で行われていますが、最も重要なことは、どのように集合体・チームとして試合にアプローチし、どのようにアイデンティティや個人の成長を促すゲームアイディアを構築・開発するかを知ることです。その最たる例がトップチームです。要点を言えば、私の役割は、トップチームとアカデミーにある距離を縮め、U-18チームとU-23チームを、方法論のレベルで、または、我々が基本と考えているゲーム原則のレベルで、トップチームに近づけることです。そして同時に、弱点を再構造化し、細部に対して完璧主義であり、選手が持つクオリティを最大化する点において、選手”個々”についても配慮します。

-エリート選手の育成という仕事は、育成年代の選手に対してのみ行われるのですか?

エリート選手の育成は、トップチームに入る才能があるとクラブが信じている選手に対して適用されます。それは、シニア年代、レンタル移籍中の選手、アカデミーからトップチームへの移行フェーズにある選手などです。

-あなたがユルゲン・クロップに情報を提供し、それに基づいて、その若手選手がトップチームに加わるかどうかを監督が決めるのですか?

テクニカルチームの機能として、すべての決断は共有され、一緒に決定されます。ただ、最初と最後の言葉は、ユルゲンによって発せられます。この件については、私が才能のある選手の育成について責任のある役割を果たしているため、提案はいつも私から発せられます。

-クロップのように、率いるクラブの周囲に素晴らしい環境を作り出せる能力のある監督は少ないように思えます。

クラブ、街、そしてユルゲンの関係性は素晴らしいものです。完全なる共存と言えるでしょう。これは、ユルゲンの個性とカリスマ性、そしてクラブの神秘性と歴史を通じて自然に形成されたものだと思っています。間違いなく、彼は勝利・克服・ハードワーク・完璧主義の文化を築きましたが、それは彼の人となりや、彼が信ずるものと関係しています。

-ユルゲンは人を愛しています。彼は毎日どのように過ごしていますか?

(彼が人を愛することは)クラブでの日常からも感じられます。ユルゲンは、素晴らしく信じられないような人です。彼はたった5分間で、あなたを一緒に世界征服をするよう説得できるような人間です。その性格は、彼の計画にも、エクササイズにも、トレーニングにも、試合にも、講義にも、会話にも、どこにでも感じられます。我々一人ひとりにリーチし、最大限を要求することができるのです。

-何か驚いたことはありますか?

あなたは、彼のインタビューや記者会見、試合を見て彼のイメージを頭に作り上げていますが、ユルゲンはいつでもあなたを驚かすことができます。彼は多くの場合、枠の外で考え、多くの問題を予期できるような人です。

-ペパイン・ラインダースは、「ビトール・マトスはリパプールにとって今季最高の補強だ」と言いました。それを聞いてどう思いましたか?責任感が増しましたか?

いいえ。責任感は受け取った称賛とは無関係であるべきです。全く予期していなかったので、そのような言葉を聞けるのは素晴らしいのは明らかですが、称賛以上に私が追求しているのは、クラブが必要としているすべてに対して貢献し、ハードワークすることです。私は謙虚さ・忍耐力・ハードワークといったものの価値と原則を信じています。サッカーとははかないものであり、そこに残るのは私たちがどの側面にも持つ原則と価値です。ペパインは、そのプロフェショナリズム・情熱・完璧主義から、私にとっては大いなる刺激の源です。その刺激は、私個人として、家族として、そしてプロとして、素晴らしい助けになっています。それこそが、彼が驚くべきほど優れた人間であることを意味しています。

-では、リパプールについてより一般的な文脈での話をしましょう。プレミアリーグでは事実上他のチームはノーチャンスです。チームの成功のポイントは何でしょうか?

すべての始まりは、素晴らしい選手たちです。才能があり創造性のある選手たちが、試合はチームによるものであることを信じており、攻守両面において起こることに対して責任があることを理解しているのであれば、他のチームが注意しなければならないチームになります。クラブとしてより組織的に整備されるほど、ディテールの重要性を感じられる選手が増え、間違いなく彼らは、クラブが選手に対して日々持っている努力・プロフェショナリズム・献身を感じられるようになります。この結束と文化が、今季の成功に大きく関係しています。私たち全員が、週末だけでなく1週間を通じて試合に勝利した気分を感じています。チームの野心・メンタル・才能・そして創造性は素晴らしいものです。

-いまやリパプールは、単なるプレッシング(ゲーゲンプレッシング)と縦に速いだけのチームではありません。より汎用的で柔軟になりました。

それはいくつもの要因が関係しています。そのひとつが、我々のゲームアイディアに則って、選手の特徴を最大化できた方法です。この可変性は、チームが直面する様々な問題に対して、チーム全体で調整が効くように敏感に構築されていることに起因します。全てが、試合のリズムとスペースをどのように管理するかに関係しています。

-クロップがリバプールに来たとき、ララーナは「フィジカル的な要求は増えたが、その努力によって引き起こされた痛みは良いものだった」と言いました。どのように、才能ある選手がこのような姿勢を持つように説得しているのですか?

説得する以上に、要求するのです。我々は基本となるゲーム原則に基づくことを選手たちに要求しており、それがチームの流動性とインテンシティを保証しています。我々は組織のオーガナイゼーションと戦術文化を持たなくてはならないと信じており、ユルゲンはそれを彼の人生と情熱で満たしています。このバランスは基本的なものであり、両方があって機能します。もし確かなことへの情熱しかなければ、これほど規則的で一貫性のあるチームにはならないでしょう。

-リパプールは事実上プレミアリーグの王者です。クラブとして、また街として、Covid-19による中断をどう感じていますか?

我々全員の健康と国の福祉についてこれほどまでに深刻な状況では、率直に言って、他の感情が入り込む余地はありません。ただ、今まで我々が構築してきたすべての過程・プロセスには誇りを感じています。我々はサッカーが戻ってくることを知っていますし、そうなったときに、我々が中断期間前に終えた場所に戻れると信じています。アイデンティティと情熱をもってトレーニングし、試合に臨むでしょう。

-リーグが再開する日にちは未定です。リーグを終わらせることはできると思いますか?

リーグを終わらせるためのいくつものシナリオと解決策があります。その意味で、英国政府、プレミアリーグ、そしてクラブは最善の策を見出すために、常時ディスカッションをしています。現段階で我々がしなければならないことは、自分たちと他人の健康を維持するため、自分たちにできることに集中することです。現時点で最も重要なことです。

-10年後の自分はどこにいると思いますか?

自分が良いと思い、他の人たちも望むところにいるでしょう。我々がいま生きている瞬間は、全てを相対的に見て、私たちにとって最も重要なものの近くに常にいなければならないものです。私がいつも望んでいるものは、私にとっても、家族にとっても、そしてクラブにとっても意味があるものです。

-最後に、あなたが参考にしている監督は誰ですか?

ユルゲン・クロップです

32歳の若さですでに多くのコーチング経験を積み、世界王者リパプールのトップチームとアカデミーを繋ぐ重役を任せられたビトール・マトス。CLを制した翌年、プレミアリーグを敵なしで突き進む最強チームの裏方には、FCポルト時代の同僚であり、ユルゲン・クロップの右腕とも言われるラインダースに「今季最高の補強」と称されたキーマンの存在があった。

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元新潟FWドウグラス・タンキがロングインタビューに応答「日本は驚異的な国」

『maisfutebol』

かつてJリーグのザスパクサツ群馬やアルビレックス新潟に所属し、現在はポルトガル1部パソス・デ・フェレイラでプレーするブラジル人FWドウグラス・タンキが、ポルトガルメディア『maisfutebol』のインタビューに応答。新型コロナウイルスの感染拡大を受けてリーグ戦の中断が続く中、毎日の生活やこれまでのキャリアに関する質問に答えた。その一部を抜粋して紹介する。

まず、自宅待機が続く現在の生活について、タンキは奥さんと3歳の娘と多くの時間を過ごしているようだ。平均的な1日の生活として、「朝起きて、朝食を取り、クラブが選手に課しているトレーニングをし、昼食のあとにNetflixを見ながら少し休む。夕食の後にはPlayStationでFIFAやCall of Dutyをやり、またNetflixを見て…といった生活を送っている」と、自宅トレーニングに励みながらも、リラックスした落ち着いた日々を送っていることを明かした。

昨季は2部に所属していたパソスで、タンキは14ゴールを挙げ、チームの1部昇格に大きく貢献した。インタビューでは、自らのキャリアを大きく飛躍させることとなったパソスでの経験について、改めて振り返った。

「パソスのことは知らなかったけど、ポルトガルサッカーについてはずっと知っていた。ポルトやベンフィカといった、常にCLを戦っているクラブなどだね。ヨーロッパに来て自分のサッカーを見せることは夢だった。ここは自分を世界に披露するにはうってつけのショーケースだよ。パソスからのオファーをもらったときは、すぐに受け入れた。1年目は全てがうまくいったし、今シーズンもいい感じに来ている。毎日より良くなるよう追い求めている」

タンキのキャリアを大きく押し上げた功労者として、当時の監督ビトール・オリベイラの名は欠かせない。「ポルトガルの昇格王」と称される名将で、これまで2部チームを1部に昇格させた回数は実に2桁にのぼる。ポルティモネンセでは中島翔哉らを指導し、日本サッカー界にも名が知れた監督である。

「ミステル、ビトール・オリベイラとともに仕事ができたのは、自分にとってはセンセーショナルなこと。最初は、監督はしょっちゅう叫んでいたし、多くのことを要求してきたから、『鬱陶しい監督だ!』なんて言っていたね(笑)。でも監督は、誰が一番トレーニングに励んでいるかを知りたいだけだということが分かったよ。AチームもBチームもない。監督はよく言っていた『ベストな選手が試合に出られる』とね。監督が昇格王と言われる所以はブレないから。チャンスを与えるに値する選手に、チャンスを与えている。だから、多くの選手が監督と一緒に働くことを好んでいるんじゃないかな」

パソスでの活躍の秘訣を、タンキは「すぐに順応できたこと」と述べた。「言語が同じである」ことはひとつの要因であり、他にも、1部で3位に輝いたこともあるパソスの「2部のチームとは思えないほど良い環境」も要因だという。一方で、その以前に所属したタイリーグでは適応に苦しんだようだ。

「タイにはうまく適応できなかった。すごく難しかった。タイ語も英語も話さなかった。プレーできていなく、半年間経ってパソスからのオファーを受けた際に、ここに来ることを決断した。(タイのポリス・ユナイテッドとは)友好的に合意し、移籍できた」

それでも、タイ、メキシコ、そして日本と、母国ブラジルを離れてから各国を転々としてきたキャリアは、タンキにとって無駄ではなかったようだ。常に自身をそばでサポートしてくれた奥さんに感謝を述べながら、日本での生活を振り返った。

「各国での経験のおかげで今の自分がある。力強く、よく働く選手だ。でもこのようになれたのは妻のおかげ。いつも自分のそばにいてくれた。日本でプレーした当初、膝に2度の大怪我を負ったときでもね」

「リーグ戦が始まってすぐ3節の時点で、膝の十字靭帯を手術しないといけなくなった。6ヶ月かかってようやく復帰できたけど、復帰初戦でまた同じところを怪我してしまった。今度は9ヶ月。でもこの経験を経て、自分は強くなり、さらに良くなって戻ってこられた」

「(素晴らしいプレー環境にある)パソスでの生活は、日本について言えば大きな違いはない。彼らもすごく進歩していて、プロフェッショナルだ。驚異的な国だよ。メキシコもタイも、あれほど整ってはいなかった。あれほどクオリティが高く、競争力のあるリーグではなかった」

左足の強烈なシュートを武器に、コリンチャンス時代は同僚であるあの「皇帝アドリアーノの息子」と称されタンキ。パソスではスポルティングやブラガなどの強豪相手にゴールを叩き込み、ポルトガル1部リーグでも着実にインパクトを残している。新型コロナウイルスによる中断期間を経た後、さらなるステップアップに期待がかかる。

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ポルトのチーム得点王SB、中島翔哉とのエピソードを明かす

『Record』

ポルトのブラジル人LSBアレックス・テレスが、ポルト公式が公開した番組「FC Porto em casa (お家でFCポルト)」に出演。チームの左サイドで共演することも多い中島翔哉とのエピソードを語った。

「僕らが彼(中島)に教えた最初の言葉は、『cansado (疲れた) 』、次に『folga (休み)』だよ。それで(セルジオ・コンセイサオン)監督が、彼のところに行って尋ねたんだ、『それで、ナカ、今日の言葉は何だい?』って。すると彼は答えるんだ、『疲れた』『休みをください』ってね」

「彼は冗談でひとつふたつの言葉を言うけれど、たくさん会話をすることはできない。自分は、チームで一番彼に冗談を言っているうちのひとり。日本語を話そうとチャレンジしてしても、ほとんど何も出てこないけどね。

彼は自分の世界にすごく閉じているよ、否定的に言っているのではなくてね。彼は静かにしている。コミュニケーションが容易ではなく、英語も少ししか話せないからね。僕らは、彼が心地よく過ごせるように務めている。監督もよく彼に冗談を言うし、同様に努めている。デンベレという通訳が、中島には英語で話している。

彼が静かなのは、たぶん彼が僕らの言語を話していたとしても変わらないんじゃないかな。彼のやり方の中では、お茶とケータイを携え、でもピッチの中では、印象的なクオリティを持っている。信じられないものだよ」

アレックス・テレスは、SBながら現在リーグで8ゴールを挙げてチーム得点王に君臨。チェルシーやバルセロナ、パリ・サンジェルマンら強豪クラブが関心を寄せると言われる、まさにチームの中心選手。そんなテレスやセルジオ・コンセイサオン監督のサポートのもと、中島はマイペースながらもピッチ上でその技術を見せつけているようだ。

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日本人投資家がポルトガル2部オリベイレンセに経営参画!

ポルトガル2部リーグに所属するオリベイレンセが、日本人投資家である金哲碩(Akihiro Kin)氏からの資金調達を受けて、同クラブの経営主体となる公開有限会社(SAD:Sociedade Anónima Desportiva)を創設。SADのプレジデントには、シントトロイデンなどで経営幹部を務めてきた山形伸之氏が就任することを発表した。

オリベイレンセの公式HPによると、金哲碩氏は、nuts&aboutという投資会社を経由して、SADの株式の70%を取得。金哲碩氏は東京都出身の39歳であり、現在はスマホゲームアプリの開発会社f4samuraiの代表取締役社長を務めている。今回の実質的なクラブ買収に際して、金氏は「ヨーロッパのクラブに投資したかった、それが私の大きな挑戦。その際に、山形氏と話をして、ポルトガルリーグを選んだ。幸いにも、オリベイレンセという97年の偉大な歴史を誇るクラブと話すことができた。クラブの方々、オラーシオ会長、街の雰囲気全てを気に入って、投資することを決めた。オリベイレンセには、成長のポテンシャルがあると感じている。ポテンシャルを最大限引き出せるよう、良い組織制度やトレーニングセンターを構築したい」と意気込んだ。

経営の実務を担う山形伸之氏は、東京都出身の49歳。同氏は、DMMによるベルギーのシントトロイデン買収とその後の経営に関与していた経歴を持つ。「現時点で、我々の主な目標は2部リーグ残留。それに全員が集中している。そのために全力を尽くすし、それが自分にとってシーズン末までの挑戦であり仕事」と、下位に低迷するクラブの残留を誓った。

日本企業から投資を決意した背景として、オリベイレンセの会長であるオラーシオ・バストス氏は、「我々の理解では、プロリーグで競争力のあるチームになり、市場にくらいつけるタレントを育成するプロジェクトを成し遂げるためには、オリベイレンセを公開有限会社化する必要があった。いくつかのプロジェクトや投資家から話を聞いが、我々の現実と野心に適切なものを選んだ。クラブはいまも、そしてこれからも常にソシオとともにある」と、経営実権の交代について、ファン・サポーターへの声明を発表した。

オリベイレンセは1922年創設、ポルト郊外のオリベイラ・デ・アゼメイスに位置するクラブ。本拠地のカルロス・オゾーリオスタジアムは4000人のキャパシティを保有する小クラブである。現在、2部リーグで16位に沈んでおり、ひとつ順位を落とせば3部相当のポルトガル選手権に降格する危機に瀕している。

ポルトガルでは、1部ポルティモネンセが多くの日本人選手をプレーさせていることが知られるが、同クラブも今後、日本人選手にとってヨーロッパの舞台に一歩踏み出す足がかりになるに違いない。

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