【3章】突然の誘い。「クライフ流」を胸に監督の道へ

【2章】ビッグクラブの壁。中小クラブを転々としたファンタジスタ

35歳。選手として晩年を迎えていたジョルジ・ジェズスは、3部のアウマンシレンセで、マリオ・ウィルソン監督を支えるベテラン選手として異彩を放っていた。シーズン序盤の好調を維持したチームは、2部昇格も視野に入れていた。

そんな中で、キャリアの転換期はジェズスのもとに突然現れた。

所属するアウマンシレンセがアモーラと対峙した一戦。ジェズスはいつものようにチームの戦術をピッチで具現化するような老獪なプレーを見せていた。

試合が終わると、1人の男がジェズスに話しかけた。「我がチームの監督をしてみないか」。この日対戦したアモーラの会長から、突然の誘いを受けた。

「アウマンシレンセとアモーラの試合後、相手チームの会長が私を呼び、監督として招待してくれた。彼は私がまだ選手としてプレーしていたことを知っていた。でも、私はすでにピッチ内の監督だったのだ」

日曜日に突然の誘いを受けたジェズスは、翌月曜日に承諾の返事をした。当然、監督になる覚悟を抱かねばならなかったが、同時に、3部リーグからの新たな挑戦に鼓動を高鳴らせた。

クラブ会長マリオ・ルイ・ダ・シウバ・ヒベイロの目に狂いはなかった。ジョルジ・ジェズス新監督は、就任後すぐに、アモーラを2部昇格へと導いた。

ちなみに、アモーラはセトゥバル地方に拠点を置く小さな街クラブである。これまで3度1部リーグを経験し、ジョゼ・モウリーニョの父、フェリックス・モウリーニョが監督を務めた過去がある。現在、チームは存続の危機にあるが、90年代前半は今日ほどの困難は抱えていなかった。

就任直後にチームを2部昇格へと導いたジョルジ・ジェズスの心中には、監督として確かな自信が芽生え始めていた。と同時に、凡庸な選手に終わったサッカーの世界でもう一度リベンジしたいと思ったのであろうか、「監督としてもっと多くのことを学びたい」、そんなモチベーションが湧き上がってきた。

その足は、スペインのバルセロナへと歩みを進めていた。ジェズスがアモーラの監督に就任した1989年、当時世界を席巻していたのはヨハン・クライフがオランダ代表で展開した「トータルフットボール」を導入するバルセロナだった。スペインのリーグ王者に4年連続で輝き、ロンドンの聖地ウェンブリーで行われたヨーロッパチャンピオンズカップでは、サンプドリアを下し悲願の優勝を達成していた。

「当時の私を魅了していたチームの1つがオランダ代表だったんだ」

ジョルジ・ジェズスは、クライフがフットボール界へ導入した大革命に心酔した監督のうちの1人だった。そして、「ドリームチーム」をその目で確認するために、バルセロナ研修へと赴いた。クライフと時間を共にすることはなかったものの、アリーゴ・サッキやテレ・サンターナらの仕事を観察する機会に恵まれ、有益な気づきを両手に母国へと帰還した。

帰国後、アモーラからフェウゲイラスへと移籍したジョルジ・ジェズスは、バルセロナから持ち帰った3-4-3を早速チームへ導入した。

「スリーバックは最も導入が困難なシステムだ。数人の選手はひとつのポジションを超越したタスクをこなさなければならないからだ。全ての選手がその能力と戦術的カルチャーを備えているわけではないのだ」

ジェズスが自らこう語るように、スリーバックは攻撃への偏重を意図する、まさに勇気の象徴である。そしてそれがいつも機能するとは限らない。ジェズスが率いたポルトガルの弱小チームのスリーバックが、当時世界最高峰のクラブ、バルセロナのそれとはかけ離れていたのは言うまでもない。

このような苦境にこそ、ジェズスが持つ監督としての卓越した手腕は際立つ。ジェズスは、システムとしてのスリーバック導入に苦労する中で、彼のゲーム原則をチームに根付かせることを最優先した。選手全員が共有する素早い守備組織や、攻撃における展開力と創造力、そして攻守両面でのプレー密度といった特徴は、ジェズスが標榜するサッカーの、まさにアイデンティティーである。

フェウゲイラスでの5シーズンで、ジェズスはチームを2部リーグBカテゴリーから2部リーグへ昇格させ、1995-96年には1部リーグへと導いた。選手としては凡庸に終わったジェズスだったが、将来大成功を収めることになる未来の名将への道を、このように確実に歩んでいたのだ。

【終章】地獄からの生還とトップクラブへの栄転。そして心のクラブでリベンジを期す

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