【連載5回分をひとまとめ】天国と地獄を彷徨ったベンフィカから、愛する心のクラブスポルティングへ。老将ジョルジ・ジェズスの人生に迫る

2012-13シーズンも終盤に差し掛かり、共にリーグ戦無敗同士で激突したポルトとベンフィカ。勝利したチームがこの年のリーグ王者を手中にする世紀の直接対決であった。両者譲らず、1-1で迎えた後半ロスタイム。ポルトの若手ブラジル人FWケウビンが中盤でボールを受けた。味方にパスを出すと、その足で相手ディフェンスラインの裏へ走り込む。リターンを受けたトサカヘアのブラジル人は右足でボールをトラップ。すぐさま左足を豪快に振り抜き、ゴール左隅に強烈なシュートを叩き込んだ。

試合終了間際の劇的な勝ち越し弾だった。ポルト監督ビトール・ペレイラが、我を忘れてスタジアムを駆け回るかたわらで、白髪のベンフィカ監督は、落胆の感情を抑えきれずに膝から崩れ落ちた。のちに「Joelho de Jesus(ジェズスの跪座(きざ))」と語り継がれる名シーンを演じたのが、ベンフィカを率いるジョルジ・ジェズスであった。全てを勝ち取るチャンスがありながら天王山に敗れ、まさに天国から地獄へと転落していったのだ。

それでもなお、ジョルジ・ジェズスは偉大なチャンピオンである。2009年にベンフィカの監督に就任すると、任期1年目ながら、失意に喘いでいたクラブに5シーズンぶりのリーグ優勝をもたらした。その後、前述のシーズンを含めた3シーズンに渡りポルトへ王者を譲り渡すも、2013-14には国内3冠を達成しチャンピオンに返り咲いた。

ベンフィカは、かのモウリーニョがチームを去ったポルトの転換期である2004-05シーズンにリーグ優勝を果たしたが、そこからは4年連続でライバルに王座を受け渡していた。そんな出口の見えない漆黒のトンネルに差し込んだ一筋の光が、2009年に到来したジョルジ・ジェズスだったのだ。日本語で光のスタジアムを意味するベンフィカのホーム「ルス・スタジアム」の名にふさわしい監督就任であった。その後、ビラス・ボアスとの激戦に敗れ去るなど、再びポルトに3連覇を許したが、2013-14と2014-15シーズンの2年にかけて、自身初となるリーグ2連覇を達成。ベンフィカ就任以来6年もの間、ポルトとの熾烈なチャンピオン争いを演じ、チームをポルトガルNo.1クラブへと復興させたのだ。

ジョルジ・ジェズスはまさに、ベンフィカの近代史に名を刻む名将である。グッドマンやエリクソンら歴代の名監督を超える記録を次々と打ち立てた。毎シーズン年間100ゴールを超える得点を記録し、ソシオやサポーターの厳しい要求に応え続けた。現在世界各国で活躍するスーパースターを毎年輩出し、クラブに膨大な移籍金をもたらした。歴代最高のポルトガル人監督の1人であり、ポルトのピント・ダ・コスタ、スポルティングのブルーノ・デ・カルバーリョ、ベンフィカのルイス・フィリペ・ビエイラという3強クラブの会長全員が招聘を狙った稀代の名将である。

ベンフィキスタが待ち望んだクラブの救世主は2015年、6年の任期を終え、同じ街リスボンのライバルクラブ、スポルティングへ禁断の移籍を決断した。しかし、これはベンフィカへの背徳行為ではない。ジョルジ・ジェズスは根っからのスポルティンギスタであり、キャリアの終盤に心のクラブを率いたいと願う、至極当然の選択であった。

<1章>
悲劇の少年期。試練を乗り越え夢のクラブへ

ジョルジ・フェルナンド・ピニェイロ・デ・ジェズスは、1954年、リスボン南部の街アマドーラにて生誕した。父は、40年代に地元スポルティングのフォワードとしてプレーしたビルゴリーノ・デ・ジェズス。熱狂的なサッカーファンであった祖父と、自身がプロ選手である父らに囲まれ、ジェズス少年は幼き頃からサッカーボールとゴールネットに囲まれた環境で育った。

ジェズス少年がサッカーの道を歩むきっかけを作ってくれた祖父は、1967年の夕方、突然この世を去った。

家族は、ジャモールにある国立競技場にて、ビトーリア・セトゥバル対アカデミカの一戦を観戦していた。試合は延長戦に突入し、スコアは2-2のドロー。悲劇は前兆もなく突然に訪れた。同じくスタジアムで観戦していた祖父が急病に倒れたのである。当時、ジェズス少年がまだ13歳の頃。愛する祖父は、無情にも帰らぬ人となった。

幼き日のこの一件から、ジョルジ・ジェズス監督は、この国立競技場で試合が行われる際には必ず、「勝利は祖父に捧げる」と哀悼の意を示している。

祖父との思い出を胸に、ジェズス少年は愛するクラブ、スポルティングでプレーすることを夢見た。しかし、神様は悪戯にも、少年にさらなる試練を与えた。15歳の頃に所属した地元の小クラブ、エストレーラ・ダ・アマドーラでは、喘息を患った関係で、6ヶ月間プレーできない状況が続いた。

祖父の死と喘息による中断。悲劇と困難を乗り越えついに夢を叶えたのは、ジェズス少年が17歳の頃。念願であったスポルティングの下部チームへの移籍が実現したのである。

それ以来ジェズス少年は、家業を手伝い、サッカーの練習をしながら学校へ通うという、あまりに多忙な生活を送った。疲労のあまり、ある日の夕食中に銀のスープ皿を枕に眠ってしまったというエピソードもある。

見かねた父ビルゴリーノは、息子に選択を迫った。学校かサッカーか。どちらか1つに絞った方が良いという、息子への愛情からだった。当然ながらジェズス少年は学校を辞め、サッカーで生計を立てる道を選んだ。まさか40年後に、早くして断念した教育の道の最高峰である大学で、自身が講演をすることになるとは、当然のジェズス少年は知る由もなかっただろう。多忙な時間を過ごした当時を振り返り、ジョルジ・ジェズスはこう語っている。

「父と母は私に、自分がどうしたいのか尋ねてきた。そこで私は、仕事をしながらサッカーを続ける道を選んだんだ」

<2章>
ビッグクラブの壁。中小クラブを転々としたファンタジスタ

1973-74シーズン、スポルティングのジョゼ・アウバラーデ・スタジアムは熱狂に包まれていた。ダマスやカルロス・アリーニョ、ヤサルデにマリーニョ。クラブの歴史に名を刻む偉大なる選手たちがピッチで躍動していた。7戦連勝と波に乗りリーグ王者への道をひた走るだけでなく、ベンフィカとのカップ戦決勝に勝利してタイトルを戴冠。シーズンの終わりには、エースのヤサルデが46ゴールを記録して、ヨーロッパNo.1ストライカーに輝いた。

まさにスポルティング黄金時代の真っ只中に、ジョルジ・ジェズス青年はトップチームへ昇格していた。当然、これら名選手がひしめくメンバーに、ユースチームから上がったばかりの若輩者に居場所はなかった。

ようやく上り詰めたスポルティングのAチーム。そこにジェズスの姿はなかった。

トップチーム1年目の攻撃的ミッドフィルダーは、リスボンの北西、「ペニシェ」にいた。ペニシェは、弱小クラブながら、当時1部昇格を視野に戦っていた。結果として昇格は譲ったものの、技術力に優れたジェズスは、この弱小クラブで一定の評価を獲得した。

翌年、スポルティングはジェズスをオリャレンセへと向かわせた。ペニシェとの共通項は「海辺のクラブ」というだけだった。明らかに違っていた点は、オリャレンセが1部リーグに所属していたという事実であった。

初の1部挑戦を経て、ジェズスの才能は開花。印象的なプレーで観客を魅了し、ゴールを積み重ねた。ベレネンセス相手に計2ゴールを決め、ビトーリア・ギマラインス、ビトーリア・セトゥバル、ボアビスタを自身の評価を高める生贄にした。

若きジェズスにとって、この活躍ぶりは所属クラブを納得させるには十分なものだった。翌年、スポルティングはオリャレンセで結果を残した若手選手をチームに呼び戻した。1975-76シーズン、ジェズスは幼き頃からの心のクラブ、スポルティングのユニフォームに、プロとして初めて袖を通した。祖父との記憶が蘇った。一生続けと願ったであろう、まさに夢のような瞬間だった。

しかし、期待感に満ち溢れる若者に待ち受けていた現実はあまりに残酷だった。12試合に出場してスタメンを飾ったのはわずかに1度。当時チームを率いたジュカ監督にとって、ジェズスは控え選手以上の何者でもなかった。

その中で、ジェズスが挙げた唯一のゴールは、コインブラにて行われたアカデミコ戦の1点だけであった。マリーニョに代わってピッチに入ったその5分後、チームが4-1で勝利した試合を決定付ける得点だった。

翌年、ジェズスはスポルティングを退団した。幼少期より夢見たクラブと自分自身のキャリアを天秤にかけた苦渋の決断だった。心のクラブを去ったジェズスは、ベレネンセスと契約。しかし、ここでもシーズンを通して1点しか決められず、その後は中小クラブを転々とした。リオペレ(3得点)を皮切りに、ジュベントゥーデ・デ・エボラ、ウニアオン・デ・レイリア、1980-83シーズンにはビトーリア・セトゥバルでキャリアを重ねた。

中小クラブを行き来する中で築いた、か細いながらも高い技術を駆使する典型的なファンタジスタ像。しかし、これまで所属したクラブは強豪とは呼べないチームばかりであり、ジェズスは、自身にスポルティングのようなビッグクラブで活躍できるほどの才能がないことをすでに自覚していた。自身のキャリアはそう長くは続かないだろう。そのように悟っていたジェズスの頭に、監督という将来の選択肢がよぎっていたのは自然の摂理であった。

セトゥバルを後にしたジェズスは、ファレンセへ入団。その後自身が少年期を過ごしたエストレーラ・ダ・アマドーラにプロとして復帰した。晩年にはアトレティコと3部リーグのアウマンシレンセでプレー。そして、1989-90シーズン、当時35歳で選手としての挑戦に終止符を打った。

父の背中を追いかけ、ずっと夢見たスポルティングで活躍する自分自身の姿。しかし、ポルトガルでも有数なビッグクラブの壁は、ジェズスにとってあまりに厚く、そしてあまりに高かった。

<3章>
突然の誘い。「クライフ流」を胸に監督の道へ

35歳。選手として晩年を迎えていたジョルジ・ジェズスは、3部のアウマンシレンセで、マリオ・ウィルソン監督を支えるベテラン選手として異彩を放っていた。シーズン序盤の好調を維持したチームは、2部昇格も視野に入れていた。

そんな中で、キャリアの転換期はジェズスのもとに突然現れた。

所属するアウマンシレンセがアモーラと対峙した一戦。ジェズスはいつものようにチームの戦術をピッチで具現化するような老獪なプレーを見せていた。

試合が終わると、1人の男がジェズスに話しかけた。「我がチームの監督をしてみないか」。この日対戦したアモーラの会長から、突然の誘いを受けた。

「アウマンシレンセとアモーラの試合後、相手チームの会長が私を呼び、監督として招待してくれた。彼は私がまだ選手としてプレーしていたことを知っていた。でも、私はすでにピッチ内の監督だったのだ」

日曜日に突然の誘いを受けたジェズスは、翌月曜日に承諾の返事をした。当然、監督になる覚悟を抱かねばならなかったが、同時に、3部リーグからの新たな挑戦に鼓動を高鳴らせた。

クラブ会長マリオ・ルイ・ダ・シウバ・ヒベイロの目に狂いはなかった。ジョルジ・ジェズス新監督は、就任後すぐに、アモーラを2部昇格へと導いた。

ちなみに、アモーラはセトゥバル地方に拠点を置く小さな街クラブである。これまで3度1部リーグを経験し、ジョゼ・モウリーニョの父、フェリックス・モウリーニョが監督を務めた過去がある。現在、チームは存続の危機にあるが、90年代前半は今日ほどの困難は抱えていなかった。

就任直後にチームを2部昇格へと導いたジョルジ・ジェズスの心中には、監督として確かな自信が芽生え始めていた。と同時に、凡庸な選手に終わったサッカーの世界でもう一度リベンジしたいと思ったのであろうか、「監督としてもっと多くのことを学びたい」、そんなモチベーションが湧き上がってきた。

その足は、スペインのバルセロナへと歩みを進めていた。ジェズスがアモーラの監督に就任した1989年、当時世界を席巻していたのはヨハン・クライフがオランダ代表で展開した「トータルフットボール」を導入するバルセロナだった。スペインのリーグ王者に4年連続で輝き、ロンドンの聖地ウェンブリーで行われたヨーロッパチャンピオンズカップでは、サンプドリアを下し悲願の優勝を達成していた。

「当時の私を魅了していたチームの1つがオランダ代表だったんだ」

ジョルジ・ジェズスは、クライフがフットボール界へ導入した大革命に心酔した監督のうちの1人だった。そして、「ドリームチーム」をその目で確認するために、バルセロナ研修へと赴いた。クライフと時間を共にすることはなかったものの、アリーゴ・サッキやテレ・サンターナらの仕事を観察する機会に恵まれ、有益な気づきを両手に母国へと帰還した。

帰国後、アモーラからフェウゲイラスへと移籍したジョルジ・ジェズスは、バルセロナから持ち帰った3-4-3を早速チームへ導入した。

「スリーバックは最も導入が困難なシステムだ。数人の選手はひとつのポジションを超越したタスクをこなさなければならないからだ。全ての選手がその能力と戦術的カルチャーを備えているわけではないのだ」

ジェズスが自らこう語るように、スリーバックは攻撃への偏重を意図する、まさに勇気の象徴である。そしてそれがいつも機能するとは限らない。ジェズスが率いたポルトガルの弱小チームのスリーバックが、当時世界最高峰のクラブ、バルセロナのそれとはかけ離れていたのは言うまでもない。

このような苦境にこそ、ジェズスが持つ監督としての卓越した手腕は際立つ。ジェズスは、システムとしてのスリーバック導入に苦労する中で、彼のゲーム原則をチームに根付かせることを最優先した。選手全員が共有する素早い守備組織や、攻撃における展開力と創造力、そして攻守両面でのプレー密度といった特徴は、ジェズスが標榜するサッカーの、まさにアイデンティティーである。

フェウゲイラスでの5シーズンで、ジェズスはチームを2部リーグBカテゴリーから2部リーグへ昇格させ、1995-96年には1部リーグへと導いた。選手としては凡庸に終わったジェズスだったが、将来大成功を収めることになる未来の名将への道を、このように確実に歩んでいたのだ。

<終章>
地獄からの生還とトップクラブへの栄転。そして心のクラブでリベンジを期す

順風満帆に思えたフェウゲイラスでの生活にも、ジェズスが知らぬ間に亀裂が生じ始めていた。

ジェズスがクラブへ導入した革新的なメソッドは、監督と選手の間に決して軽視できない齟齬を生み出していた。例えば、ジェズスがアリーゴ・サッキに心酔されて持ち込んだセットプレーでのゾーンマークは、これまで常識的にマンマークで守っていた選手たちを混乱させた。結果的に、彼らが監督へ不平を口にするなどチーム状況は悪化。さらに、強豪並みいる1部リーグでの勝てない日々が、チームの閉塞感を加速させた。

クラブ内部の不満は、ついにサポーターにまで伝染。ある日、1人のサポーターがピッチへ侵入し、ジェズスにピストルを突きつけ、チームを去るように要求したこともあった。

落花枝に返らず。ついには一度離れた選手やサポーターの心を取り戻すことはできなかった。フェウゲイラスは2部に降格し、ジェズスが2部リーグBカテゴリーから昇格させた功績は、すでに過去の栄光であった。

泣きっ面に蜂。チーム状況の悪化だけにとどまらず、ピッチ外でのスキャンダルにも襲われた。所属選手のシセロ・ロペス・ダ・シウバにドーピングの疑惑が生じるなど、ジェズスにとって好ましくない噂が流れ始め、監督の責任問題に。ジェズスの社会的評価は急落した。

失ったイメージを取り戻すのには時間が必要だったが、彼にとっての唯一の救いは、やはりフットボールであった。

フェウゲイラスを去ったジェズスは、ウニアオン・ダ・マデイラの監督に就任。その後、幼少期を過ごしたエストレーラ・ダ・アマドーラへ監督として復帰した。1998-2000年にかけて1部リーグ8位という優れた成績を残し、ジョルジ・アンドラーデとケネディの若手2選手が代表に選出される快挙を演じた。翌年、ジェズスが去ったチームは降格してしまったが、逆に彼の監督としての手腕を際立たせる結果となった。その後、ビトーリア・セトゥバルを1部昇格に導き、その後はアマドーラへの復帰やモレイレンセ監督就任など、1年毎にクラブを転々とした。

2005-06シーズンから、ジェズスはうなぎのぼりにキャリアを押し上げていった。ジョゼ・ゴメスが第5節に早くも解任されたウニアオン・デ・レイリアの監督に就任すると、危機的なチームを立て直し、7位に引き上げた。

翌年にはベレネンセスで、それまでで最高のシーズンを送った。チームを5位に導き、ポルトガルカップでは決勝戦まで到達したのだ。幼き頃の思い出であり、選手時代の因縁でもあるスポルティングとの決勝では、リエジソンのゴールに沈み、惜しくも1-0で敗れてしまったが、翌年も監督を続投。2年目も8位と上位をキープし、翌年、強豪ブラガと契約するに至った。

現在こそ新興勢力と知られるブラガで、ジェズスはリーグで5位に輝き、UEFAカップではパリ・サンジェルマンに敗れたものの16強入りを果たした。この功績が認められ、ついにはポルトガルの頂点である、ベンフィカへ引き抜かれた。

そして物語は序章へ巻き戻る。国内屈指の監督へと成長したジョルジ・ジェズスが就任したベンフィカは、その年リーグ優勝を経験。その後、「ビラス・ボアスvsジョルジ・ジェズス」、「Joelho de Jesus(ジェズスの跪座)」などの困難を経て、国内3冠とリーグ2連覇、EL2年連続決勝進出などの快挙を次々と打ち立て、国内No.1の名将へと登りつめた。

そんな老将は今季、信頼と結果、全てを勝ち得たベンフィカを捨て、愛する祖父と父との幼き日々から憧れるスポルティングの監督に就任した。スポルティンギスタがジェススに対して向ける目は、かつてのか弱きファンタジスタへの不安ではない。中小クラブでの困難を乗り越え、ベンフィカで10つのタイトルを勝ち取った名将への期待感である。

選手時代から監督時代まで、絶えず困難を乗り越えてきたジョルジ・ジェズスは、念願の「愛するスポルティングでのリーグ優勝」に向け、古巣であるベンフィカとの熾烈な優勝争いを今も繰り広げている。

参考文献
『Jorge Jesus -Os segredos e a arte de um dos melhores treinadores do mundo-』
(Rui P. Castro e Matéria-Prima Edições , 2013)